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カイ│KAI〔WEB版〕




カイスタッフブログ


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「飛生 TOBIU 芸術祭2010」

「カイ」第7号で登場いただいたアーティスト・国松希根太さん。国内外で作品発表を行なっていますが、先日その国松さんの作品制作の拠点、白老町「飛生アートコミュニティー」という場所へ行って来ました。
開催されていたのは「飛生芸術祭2010」。
作品群から、いま芸術とはどういう意味や機能を持ってどう人々に還元されてゆくのか、地域社会との連動性を伴って芸術が生れ出る土台などに興味が湧いてきます。
残念ながら夕暮れ時のライブパフォーマンスは見逃しましたが一部撮った写真、公開します。

河口-沙流川

虫頼み

来年春号用に先行撮影して回っていた某所にて発見。


コガネムシ うつくしい・・・

初めてナマで見ましたが、光の角度によっては
ほんとにバブリーなGOLDでした。

黄金虫だけに、金運upのご利益があるかもしれません。

ちょっとでいいんで…サマージャンボ当たりますように。

鉄路で行く



本誌連載「鉄路とまちと」は、JRと自分の足が移動手段。JRは各駅停車のローカル線で行く。クルマ旅では「時間に縛られる」ということがなかった。好きなときに、好きなところへ立ち寄り、大体の時間に宿へ到着すればそれでOKだった。鉄旅は、時間厳守が鉄則だ。ダイヤの遅れなど、ほとんどないのだから、「乗り遅れたアンタが悪い」ということになる。ある意味では不便だ。しかし、この不便さが、いい。世の中、自分の都合で生きてはいけないのだよ、と時刻表はかくも親切に教えてくれる。さらに、こんなオマケも。



稚内から名寄へ向かう途中。南稚内から、ひとりの老婦人が乗車。70代かなぁ。少々おしゃれをし、大きめのバッグを抱えているから、どこかへ小旅行だろうか。2駅ほど過ぎたころ、入口近くの席へ移動してきた。何かそわそわしていて、どうも落ち着かない。一見、挙動不審…。

そのわけは、次の駅で判明した。無人駅の小さなホームには、赤ちゃんを抱いた若いお母さんと3歳くらいの男の子。老婦人がホームに降り立つやいなや、男の子は、おばあちゃんめがけて猛ダッシュだ。声は聞こえないが、「ばあちゃん!ばあちゃん!」と、老婦人がよろけそうなくらいの勢いで、抱きついている。老婦人もよろよろしながら満面の笑顔。その様子をニコニコ見守るお母さん。

改札口のある駅では、こうはいかない。ほんの数十秒ではあったけど、無人駅ならではの、シーンだった。特急ばかりを乗り継いできたような、わが身の来し方を振り返る。網棚に忘れたものの、何と多いことか。

最新号・本日発売

カイ・Vol.8 出ましたよ。



今回の特集では宮沢賢治が歩いた北海道についてググッと迫ります。ググーっと。

にしても、賢治作品は中学・高校くらいにさらっと一通り読みましたが
北海道に3度、訪れていたとは知らなんだ。

この3度ってのが、多いのか少ないのか…微妙な数字ではありますけども。

私は「小樽編」を担当しまして、こちらも全部で3回小樽に行きましたが
ほとんど天気に恵まれませんでした。 体質ですかね〜



そして知床のお膝元、斜里町の「北のアルプ美術館」は面白かった〜遠かった〜。

なにが面白いってこのアルプ、山についての雑誌なのに
山のガイドブック的な要素がひとつもないんですから。
著名な作家達がそれぞれの山への思いを、詩やエッセイにして寄稿しています。

あそこが危険とか、ビューポイントはここ、とか無いんですよ。
愛情たっぷりの、山・同人誌なわけです。

1983(昭和58年)廃刊ですので、「アルプ」という雑誌については
全く知りませんでしたが、カイ世代の中にはかつてのアルプ読者もたくさん
いらっしゃることでしょう。

ここに居ると、たくさんの古い本のにおいに包まれて
今が21世紀なことを忘れてしまいます。

星野道夫さんはこのアルプを300冊(!)もアラスカに持ち込んで
かの地での過酷で孤独な長期撮影の心の拠り所にしていたとか。
ん〜、自分だったら何をチョイスしていくだろうか・・・ロクなものが思いつかない。

残念ながら、今現在このアルプを閲覧するには
この道東にある美術館に直接赴くか、図書館であたるか、古書店巡りか…
といったところです。 道立図書館でさえ全号は所蔵して無いので
すべてを読破するならば、こちらの美術館に行くしか無いようです。

いつか復刻版をじっくり読みたいものです。

館内には雑誌アルプ以外の貴重な本や、作家達のナマ原稿も展示してあります。

これからの道東は海の幸が激ウマなシーズンですから
世界遺産・知床巡りのコースに「北のアルプ美術館」を入れてみてはいかがでしょうか。

『北のアルプ美術館』公式HPはこちら

宮澤賢治と開拓

宮澤賢治に「札幌市」という短い詩がある。

遠くなだれる灰光と
貨物列車のふるひのなかで
わたくしは湧き上がるかなしさを
きれぎれ青い神話に変へて
開拓紀念の楡の広場に
力いっぱい撒いたけれども
小鳥はそれを啄まなかった

創作年として記された1927(昭和2)年は、賢治の最後の来道となった1924年から3年。「湧き上がるかなしさ」とは、1922年に24歳で逝った妹トシへの思いだろうし、開拓紀念の楡の広場とは、大通公園(札幌市中央区)西6丁目のことだと考えられている。

農学校の修学旅行を引率して1924年5月に札幌を歩いたとき、賢治は、中島公園の拓殖館で見た北海道の入植者のジオラマに心を引かれ、学校への報告書に「誰か涙なくしてこれを見るを得んや」と書いた。「札幌市」のモチーフとしても出てくるが、彼は「開拓」という営みと言葉に並々ならぬ反応を示している。

一般に「開拓」とは、未来への意欲や希望を抱いた言葉と考えられがちだ。しかしそれはどうやら、現代人の狭い認識にすぎないようだ。例えば秋田に根ざすノンフィクションライターの野添憲治は「開拓農民の記録」(NHKブックス)で、開拓とは、ひとつの時代が終わったとき次の時代に乗り遅れ、政策から振り落とされた人々が否応なく強いられる営みだという。中世以来の合戦で滅びた大名の家臣や家来、徳川の外様大名の整理で潰された浪人たちを鎮撫する方法が、郷士や地侍に取り立てた上で荒地を開拓させることだった。こうして「農民に落ちていった人々」のことを開拓者というのだ、と。
賢治が「開拓」に反応したのにも、こうした文脈があずかっていると思う。それは、今日の北海道をめぐってさも気軽に記号として呼び出される「開拓者精神」などとは別次元のものなのだ。北海道人は、開拓を自分たちの専売特許と考えてはならないのだし、この言葉をただ便利に使い回すことに、僕たちはもう少し慎み深く、慎重であるべきなのだろう。

◎カイ夏号「宮澤賢治の北海道観光案内」は、7月20日発売です!


札幌都心にある「開拓紀念碑」。1886年に建てられ、1901年に大通公園西6丁目に移築された。

宮澤賢治と札幌

7月20日発売のカイ夏号。今度の特集では宮澤賢治の3度目にして最後の来道(1924年)を軸にしているのだけれど、賢治と札幌の関係は、そこで終わったわけではない。ちくま文庫の全集で「羅須地人協会関係稿」にあるメモには、札幌の種苗店が6つも書かれていて、なかでも札幌興農園と札幌第一農園は二重丸つきだ。これらから花や野菜の種を取り寄せていたのだろう。
(田上義也設計の札幌第一農園の店舗の話も興味深いがここではおいて)、24歳で札幌興農園を起こしたのは、松江藩士の次男で札幌農学校で学んだ小川二郎。札幌興農園は1906(明治39)年にレンガ造りの五番舘札幌興農園(札幌市北4条西3丁目)を新築して、北海道の百貨店のはしりとなる。また小川は旧松江藩主松平直亮(なおすけ)のために鷹栖村に未開地1760haの払い下げを受けて松平農場を開拓したり、娘のマリが北海道美術史に名高い画家であることなど、興味の尽きない人物だ。

当時の種苗店は、海外に開かれた最新の情報センターでもあり、斬新なカタログを作って通信販売に積極的だった。宮澤賢治も花巻からの顧客だったはずだ。
写真家の掛川源一郎さんに最晩年に話を聞いたとき、少年時代に園芸に熱中したことを話してくれた。本輪西(室蘭)の奥に池のあるガーデンをつくり、土日や夏休みになると弟と泊まり込みで草花とつきあった。賢治とほぼ同時代、昭和のはじめの話。英国のサットン商会、アメリカのヘンダーソン商会などからカタログを取り寄せ、積み重ねると1mにもなったという。日本の種苗店もそうした影響下でカタログ販売に力を入れていたのだ。

いま賢治の農業観やその取り組みにふれると、農業と都市のインターフェイスとしての「ガーデン」が見えてくる。昨今唱えられる「農的くらし」の入り口もそのあたりにあるのかもしれない。

ちなみに札幌駅前で長く空き家状態がつづく旧五番舘(もと西武札幌店)だが、いっそ道立図書館をここに移転してはどうだろう!(もちろん建物はそのまま活用) 図書館や博物館こそ、万人に便利な都心にあるべきだと思う。小川二郎に相談したら、きっと賛同してくれるのではないだろうか。


札幌興農園のカタログ情報誌「農家の金庫」明治34年12月号
100年以上前のデザインのクオリティには驚くばかり



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