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カイ│KAI〔WEB版〕




カイスタッフブログ


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Category Archive: 露口啓二

発寒商店街春まつり

北海道大学の中島岳志準教授も協力して活性化に取り組む発寒商店街(発売中のカイVol.7に掲載)での「春まつり・無差別級古本市&雑貨市」の様子です。

まずは脅威のスピードと行動力でこのイベントを取り仕切ってくれた「アダノンキ」

_MG_4087残念ながら今回はビールなし。三谷ビルの本店では、つねに厳選されたおいしいビールがあります。

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アフンルパル通信でおなじみの「書肆吉成」

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「真駒内石山堂」店主は新撰組永倉新八のひ孫。

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ブックスボックス田原書店。アート系です。

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アルプ(次回カイに掲載します)もあった「ジュンキ堂」

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コピーライターどうしで何話してんですか。

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古本と野菜を買い込む中島先生。

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真剣な討議

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外のおまつりの様子。もっとにぎわっていましたが、私が駆けつけたときは終了間際。こんな写真しか撮れませんでした。

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皆様、お疲れさまでした。写真で紹介できなかった方、申しわけありません。

彫刻家二部黎さんの庭

保苅実さんの姉上である保苅由紀さんが、保苅さんに関するサイトhttp://www.hokariminoru.org/j/index-j.htmlで、私たちのエントリを紹介してくれた。このサイトには本になっていない保苅実のテキストも含め、おおくの情報が紹介されている。是非ご覧ください。

露口のブログ「ぼさく」FREMEN – フレメン写真製作所にも、「保苅実写真展」の記事があります。ついでにご覧ください。

笹倉いる美さん、瀬川拓郎さんや私たちは、今回の「保苅実写真展」は、はじまりであり決して着地点ではない。これからさまざまな形に変化しながら、継続していくものと認識しています。もちろん保苅由紀さんも同意なさるはず。

 

「保苅実写真展」を見に行った翌日、彫刻家二部黎さんのアトリエにご夫妻を訪ねた。二部さんのアトリエはカイ3号で紹介させてもらったが(3号の表紙も二部さんのアトリエの一角です)、いつもかわらず、言葉に尽くせないあたたかく静謐な空気に満ちている。カイ3号と重複してしまいますが、写真で紹介します。

二部黎さんの庭です。ではどうぞ。

まずは、ライ・クン・ナイの湧水と来運神社

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制作中の彫刻

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オンネ・ヌ・プリ(別名斜里岳)が眺められる、小鳥のための場所。

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この場所には謎のテラコッタがいっぱい。歩くときは気をつけて。

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谷口雅春が教えてくれたオンネヌプリ、ライクンナイに関する二部さんのテキストをご紹介します。

 

オンネヌ プリ(斜里岳)   

 

  萱野茂氏のアイヌ語辞典には、「オンネ」の頁に①年をとる ②死ぬ、とふたつ の

意味が記されている。死は一般に「ライ」を用い長老の死に尊敬を込めて「オンネ」

を用いたとある。私の住む来運地区は原名をライクンナイ(死んだ川)、 明治31年の植

民地解放以降、来運の文字があてられたと、知床博物館出版、「地名探訪 しゃり」

にある。

 

  私は毎朝、オンネヌプリを見ながらライクンナイの湧水を汲みに行く。昨年十月、

この地に住んでから、猛吹雪の日も欠かすことのない日課になった。尊敬を 込め、両

手を広げてあいさつをし、冷たい水を一盃グイッと飲む。

 

  この地に住んだ先住民にとって「年老いる」ことと、「偉大で気高い」ことは、生

き続けるための絶対価値なのであろう。いつも堂々と美しいオンネヌプリに は、年老

いたみじめさなどどこにもない。

 

  旧石器の遺跡が越川地区に確認され、縄文、続縄文、オホーツク、擦紋、アイヌ文

化と続く人類の営みが、この地に多くの遺跡を残した。文字を持たない永い 時代、こ

の地に住む人々は、民族の違いを超え、時を超えて、オンネヌプリに象徴される老い

ること偉大であることの哲学を、二万年もの間永々と心から心へ引 き継いできたので

あろう。海別岳もかつてはオンネヌプリと呼ばれ、遠音別岳はまさにオンネヌプリの

漢字への音写である。

 

  快いせせらぎ、やわらかなおいしい湧水、樹林を翔び交う小鳥のさえずり、毎日途

切れることなくこの地に人々がやってくる。

 

  ライクンナイは生きる意味を語り、水と安らぎを生あるものに与え続ける。

       ひとつの死はあらゆる生のためにある。

       死は終わることではなく全ての生の始まり・なのかもしれない。

 

  この水を飲みながら考える。年老いること偉大であること。死と生のこと。毎朝毎

朝、山と川、たくさんのこの地の生きものから学び続けている。


                             二 部   黎

 

ライ・クン・ナイの湧水の水と二部自家焙煎のコーヒーは、すこぶるおいしかったです。ごちそうさまでした。

保苅実写真展

4月29日に開催された「 保苅実写真展 カントリーに呼ばれて ~オーストラリア・アボリジニとラディカル・オーラル・ヒストリー~」に行ってきた。

スタッフブログに谷口雅春の的確な要約があるので、私は写真のみにする。

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続いて、カイにゆかりの場所を二カ所。

まずは、モヨロ遺跡。

網走は、海と森と湖に囲まれた丘が織りなす美しい街だ。モヨロ遺跡のある場所に来ると、豊かな陽光と風を感じる。

 

まずは、遺跡迄の路地。

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エゾエンゴサクの咲くオホーツク文化人の居住跡。

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ホテルまでの帰り道にあった、バー、ジアス。ここは昨夜笹倉さんに案内された場所。ジンの味とマスターとスタッフの皆様の応対は最高でした。酔っぱらって騒ぎすぎてごめんなさい。

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次カイは、彫刻家二部黎の聖地、来運です。

忌部山古墳

昨年発見したわが究極のルーツ、阿波忌部氏が作ったとされる忌部山古墳に今年も行ってまいりました。

昨年の忌部紀行はCD-Rにまとめ、あちこちに配ってみましたが、極一部の方にはすこぶる好評でした。

(「忌部紀行2009 CD_R版」をご希望の方は露口までお申し出ください。無料です。)

今年はカイでご覧ください。

 私の生まれ故郷である徳島県吉野川市は吉野川の中流域に位置し、旧名を麻植郡川島町三ツ島といいます。隣町に忌部という興味深い名の場所に、忌部山という標高250mほどの小山があり、麓に忌部神社、その少し上に近隣の人々からは「聖天さん」と呼ばれているらしい寺社が、さらに山道を歩くと、忌部山古墳群と呼ばれる6基の古墳があります。

「徳島県の海岸地帯、南部の海部郡から北部の鳴門市に、古代より海を活動の舞台とする人々の生産と居住の場が点在していた。そこに鳴門海峡から阿波を越えて土佐にまで延びる海上ルートが想定でき、さらには、それは紀伊水道を中心として、淡路島、紀伊国を含めたカイフ(海部)の世界を構成している。

平野地帯である吉野川上流から少し山が迫った地域である中流域の人たちは、剣山を中心とした山地方面を指して「ソラ(空)」と呼んでいたらしい。忌部山のある麻植郡山崎は、四国山地に入る交通路の起点であり、平野の世界とソラの世界との境の地、津であり、市が立つ場所であった。忌部氏とは、市を通して山の世界と交渉を持つ存在であった。」

以上は丸山幸彦著「図説日本の歴史-徳島の歴史-」からの要約です。素人の要約で丸山幸彦氏にご迷惑をお掛けするかもしれませんが、要するに阿波忌部氏とは吉野川を介して「カイフ」と「ソラ」を結ぶ存在なのです。

では写真を。

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こんな感じの山道をあがると

 

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IMG_1435聖天さんです。

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この日は雪が降っていましたが、バナナがなっていました。さすが南国です。

 

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山頂までこんな道です。

IMG_1464途中で見た吉野川。かつてはずっと山よりを流れていたようです。

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これが忌部式といわれる古墳。

いかがでしたか。

ついでに

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_MG_9773吉野川とソラ。

長い時間ありがとうございました。

保苅実さんの写真展

北海道立北方民族博物館の笹倉さんにBBB展写真集をお送りしたところ、博物館のサイトで紹介いただいた。同時にとてもうれしい話をお聞きしたので紹介します。
懸案だった保苅実さんの写真展がついに動き始めたようです。保苅さんはアボリジニ研究の歴史学者。(素人の私が不遜を顧みず言ってしまうと)研究者のみならず、一般人である私たちにも見過ごせない問いを提示し、自らもその問いと真摯に対峙しつつ、2004年、なんと33才の若さで旅立ってしまった、まるで隣のカントリーの祭りに招かれたように。その保苅さんが撮影した写真の展示を、笹倉さんたちは企画していた。このほどオーストラリアの関係機関から写真の使用に関して、正式ではないが、色よい返事が来つつあるということです。
保苅実さんに関しては,以前フレメンブログの「ぼさく」でも少し触れています。また、その写真が(まだ一枚も見たことがない私ですが)、間違いなく写真の持つ力を伝えてくれるものであることは断言してもいいと思っています。それほど保苅さんの残してくれたテキストは強い輝きを放っています。その書物の名は、「オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践」という副題を持つ「ラディカル・オーラル・ヒストリー」(御茶の水書房刊)。必読書です。

徳島弁

 NHK朝の連ドラ、「ウェルかめ」を2日連続で見た。朝の連ドラを見るのは「お華はん」以来数十年ぶり。「お華はん」(花だっけ)を知ってる人、います?なぜ見たかというと、カイの次号でお世話になった建築家の川人洋志さん(カイの20日発売号で登場します。ご期待を。)のメールから。私は徳島生まれの徳島育ち。18才まで徳島の日の光を浴びて、吉野川の水を飲み、徳島弁をしゃべりながら育った。川人洋志さんも、美しい奥様(徳島では、讃岐男に阿波女というんです。ちなみに讃岐は香川県、阿波は阿波踊りの徳島県)も徳島生まれの徳島育ち、徳島弁をなつかしがって連ドラのことを教えてくれた。川人さんは、奥様という話し相手がいますが、私の周りに徳島弁を操れるバイリンガルはいません。私が徳島弁に接するのは、たまに徳島に帰った時に両親や、仲の良い叔母や叔父の一家に会う時くらい。今では、私の中では徳島弁はほぼ消滅しかかっています。その私が聞いても、連ドラの出演者の徳島弁はいまいち。徳島弁はほぼ関西弁に近いのですが、きっと関西弁より俳優にとって難しいのだと思う。室井滋ほどのベテランでも、演技はともかく徳島弁はぎこちない。

 カイのライターの一人、北室かず子さんも、実は徳島出身。北室さんは幼少のみぎり、吉野川の増水で、桑畑に流れて来た自然のプールで、なんとオールヌード(小さい頃ですよ、念のため)で泳いでいたそうだ(ばらしてしまった)。北室さんは代々お医者さんの家系の出身ですが、野生の少女だったのだ。私よりずっと若い北室さんに聞いた話ですが、徳島の南部の山地出身の男性は、肉と言えばイノシシだった、といっていたそうだ。これは私でさえ驚いた。恐るべし徳島。最近、平地の人間は山地の世界のことを「そら」と呼んでいたことを知った(この辺のことは、私のブログのぼさく中の「忌部紀行」に書いてあります。興味のある方はお読みください)。
 こんな徳島ですが、アンジェラ・アキは徳島弁の完全なネイティブスピーカー。興味のある方は「ウェル・カメ」で徳島弁を習得してください。お望みなら、川人、北室、露口が会話のお相手をいたします。

利尻本泊神社

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早朝の雨の利尻をさまよううちに、神社の鳥居を発見。ここは利尻山神社の頓宮だ。看板にはリイシリ場所の支配人、阿部喜右衛門の建立とあり、鳥居には天保九年とある。阿部喜右衛門なる人物にまったく知識はないが(ライターの北室さんによればかなり力のあった商人らしい。あらためて勉強します)、場所の支配人とアイヌの 関係はきわめて陰惨な歴史があったことは周知の事実。
神社を囲む杜には言葉にならない空気が漂っていた。


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