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カイ│KAI〔WEB版〕




カイスタッフブログ


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冬の使者、到来

本当は、横にはもっと白鳥がいる

本当は、横にはもっと白鳥がいる



10月1日にオープンしたという、道の駅「ウトナイ湖」に行った。

湖のある苫小牧市は、私の故郷でもあり。

道の駅の目の前がすぐ湖になっていて、もうたくさんの白鳥がやってきていた。

白鳥は人懐っこく近づいてくる(エサ目当てだけど)。

自分が子どものころは、冬になると岸辺はガチガチに凍っていたが、

今はどうだろうか。

市街地に近いところで(すぐ横は車がびゅんびゅん走る室蘭街道)、

野鳥を間近に見られるところは、他になかなかないと思う。

地味な湖だが、穴場スポット。

今回はカメラを持っていなかったので(不覚にも)、ケータイで撮ってしまいました。

北海道の道の駅については、こちらをどうぞ。

「鉄路とまちと」外伝

2009_1022大島0055 

千歳線の原稿を書き終えて、ほっとしていた

ひと月ほど前、札幌農学校一期生である大島正健のひ孫姉妹、

水永晃子さんと榊原晴子さんにお会いする機会があった。

二期生の新渡戸稲造や内村鑑三に比べると

正健は地味な存在かもしれないが

クラーク博士が島松で教え子らに残した別れの言葉

“ Boys, be ambitious ” を世に広めた人だ。

最後の言葉には諸説あるらしいが

日本で最もポピュラーなクラークの言葉に違いない。

 

カイ5号の「鉄路とまちと」で中山久蔵を紹介したが

クラークについては、あえてふれていなかった。

以前、旧島松駅逓所を訪れたとき

<寒地稲作発祥の碑>のすぐそばに

<クラーク奨学碑>が建っているのを見て

なんとなく違和感を覚えたからだ。

クラークは「北海道ではジャガイモ、ビート、トウモロコシを作れ。

稲作は適当でない」と指導した。

家畜と畑作の混合農業を導入した開拓使の方針に逆らうように

稲作に挑んだのが久蔵だ。

 

「みんなは米国留学をめざしたけれど

正健は農学校に残り、クラークの教えを

忠実に伝えようとした人」と、榊原さんは言う。

稲作にこだわった久蔵のことをどんなふうに感じていたのだろうか。

 

後日、ある資料を整理していたら

大島正健の妻、千代について書かれた文献が出てきた。

1888(明治21)年、スミス女学校(現・北星学園)に

通っていた千代は小説『許嫁の縁』を書いた。

当時の婚姻形態としては常識だった許嫁制を批判したもので

『北海道毎日新聞』や雑誌『都の花』に連載された。

女性が小説を書き、新聞に寄稿するなど前代未聞の時代に。

 

意外な展開に驚いた、その数日後、自宅で別件の捜し物をしていたら、

千代の兄であり、正健と同期の伊藤一隆、内村鑑三、新渡戸稲造、

大島正健が並ぶ写真の複写が出てきた。

 

次から次へとワープしていく妙な感覚から、なかなか抜けられない。

カイという雑誌は、実に恐ろしい。

地名の動線

(16日の露口の発言を受けて)

徳島と北海道といえば、篠路村で藍の栽培を成功させた興産社のリーダー滝本五郎や、仁木町の開祖となった仁木竹吉の奮闘、徳島藩の苛烈な内紛(阿波騒動)がもとになった静内への士族移民、70歳を超えて徳島の典医、のちに町医者から十勝の斗満(陸別町)の開墾に打ち込んだ関寛斎など、開拓史を彩る印象深い人物や史実が目白押しだ。

また保苅実の「ラディカル・オーラル・ヒストリー」が僕たちに指し示してくれたのは、「歴史の詩学(A Poetic for a histories)」という新たな立ち位置をまさぐりながら、歴史を多元的に記述し思考するためのアプローチの可能性だった。

これをカイ流に練り込むと、観光経済でも消費トレンドでも近代史や個人史でもなく、はたまた民俗誌や一次産業やモノづくりのどれでもなく、しかしながらそのどれにも深く立脚したような「北海道のいま」を見て歩き、考えることになる。カイの針路がそこに見えてくる。

先週岩内町郷土館をのぞいたとき、函樽鉄道(1904年全線開業、のちの函館本線)について坂井館長が興味深い話をしてくださった。

曰く、「なぜ当時(明治30年代半ば)の大経済圏である寿都や岩内をはずして、羊蹄山とニセコのあいだを抜ける、まだほとんど村もなかった土地に鉄路を伸ばしたのか。ロシアへの備え(1904年日露戦争)で海岸線を外したという説も根強いが、それはおそらく羊蹄山麓に点在した華族や有力者の農場群の存在が大きかったのではないか」と。

確かに一帯には、樺山(薩摩)や京極(丸亀)といった地名があるし、薩摩出身の大蔵官僚、有島武とその子息武郎の有島農場などもあった。背景には、岩村通俊や永山武四郎が主導した上川離宮構想や、憲法発布と皇室典範の制定による北海道の山林の御料地化なども関わっているのだろう。

アイヌ語地名と個人地名。ふたつの変遷や交差からもまた、単に一元的な開拓史観ではなく、北海道の多元的な歴史の動線を見いだしてみたくなる。

保苅実さんの写真展

北海道立北方民族博物館の笹倉さんにBBB展写真集をお送りしたところ、博物館のサイトで紹介いただいた。同時にとてもうれしい話をお聞きしたので紹介します。
懸案だった保苅実さんの写真展がついに動き始めたようです。保苅さんはアボリジニ研究の歴史学者。(素人の私が不遜を顧みず言ってしまうと)研究者のみならず、一般人である私たちにも見過ごせない問いを提示し、自らもその問いと真摯に対峙しつつ、2004年、なんと33才の若さで旅立ってしまった、まるで隣のカントリーの祭りに招かれたように。その保苅さんが撮影した写真の展示を、笹倉さんたちは企画していた。このほどオーストラリアの関係機関から写真の使用に関して、正式ではないが、色よい返事が来つつあるということです。
保苅実さんに関しては,以前フレメンブログの「ぼさく」でも少し触れています。また、その写真が(まだ一枚も見たことがない私ですが)、間違いなく写真の持つ力を伝えてくれるものであることは断言してもいいと思っています。それほど保苅さんの残してくれたテキストは強い輝きを放っています。その書物の名は、「オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践」という副題を持つ「ラディカル・オーラル・ヒストリー」(御茶の水書房刊)。必読書です。

徳島弁

 NHK朝の連ドラ、「ウェルかめ」を2日連続で見た。朝の連ドラを見るのは「お華はん」以来数十年ぶり。「お華はん」(花だっけ)を知ってる人、います?なぜ見たかというと、カイの次号でお世話になった建築家の川人洋志さん(カイの20日発売号で登場します。ご期待を。)のメールから。私は徳島生まれの徳島育ち。18才まで徳島の日の光を浴びて、吉野川の水を飲み、徳島弁をしゃべりながら育った。川人洋志さんも、美しい奥様(徳島では、讃岐男に阿波女というんです。ちなみに讃岐は香川県、阿波は阿波踊りの徳島県)も徳島生まれの徳島育ち、徳島弁をなつかしがって連ドラのことを教えてくれた。川人さんは、奥様という話し相手がいますが、私の周りに徳島弁を操れるバイリンガルはいません。私が徳島弁に接するのは、たまに徳島に帰った時に両親や、仲の良い叔母や叔父の一家に会う時くらい。今では、私の中では徳島弁はほぼ消滅しかかっています。その私が聞いても、連ドラの出演者の徳島弁はいまいち。徳島弁はほぼ関西弁に近いのですが、きっと関西弁より俳優にとって難しいのだと思う。室井滋ほどのベテランでも、演技はともかく徳島弁はぎこちない。

 カイのライターの一人、北室かず子さんも、実は徳島出身。北室さんは幼少のみぎり、吉野川の増水で、桑畑に流れて来た自然のプールで、なんとオールヌード(小さい頃ですよ、念のため)で泳いでいたそうだ(ばらしてしまった)。北室さんは代々お医者さんの家系の出身ですが、野生の少女だったのだ。私よりずっと若い北室さんに聞いた話ですが、徳島の南部の山地出身の男性は、肉と言えばイノシシだった、といっていたそうだ。これは私でさえ驚いた。恐るべし徳島。最近、平地の人間は山地の世界のことを「そら」と呼んでいたことを知った(この辺のことは、私のブログのぼさく中の「忌部紀行」に書いてあります。興味のある方はお読みください)。
 こんな徳島ですが、アンジェラ・アキは徳島弁の完全なネイティブスピーカー。興味のある方は「ウェル・カメ」で徳島弁を習得してください。お望みなら、川人、北室、露口が会話のお相手をいたします。

回帰。

網走~斜里〜根室~釧路を廻って来ました。

カイ第2号オホーツク取材から1年。回帰現象でしょうか、

オホーツクの光に導かれるように行って来ました。

はじめに「北方民族博物館」(カイ創刊号に掲載)へ。

悔しくも都合で取材同行出来なかったこの博物館で“ビーナス(牙製女性像)”じっくり見て来ました。

あまりの小ささにビックリ、何かダリの作品を間近に見た時の驚きに似ています。

とても千年の時を経ているとは思えない新鮮さでそのフォルムは強く印象に残りました。

アクリルケース越しにじんわりとオーラを放っています。

※詳しくはカイ創刊号をご覧ください。

そして斜里の来運(ライウン)へ

カイ第2号に登場していただいた彫刻家の二部 黎さんを訪ねました。

ご自宅のすぐ近くを流れる川“ライクンナイ”に案内してくれました。

そこで見たのは回帰した夥しい数のサケ。川にびっしりです。こんな体験はそうは出来ません。

自然の営みの中に生命の意味の放射を見た思いです。

この写真ではちょっと見にくいですがこんなかんじです。

IMG_2044

この後、カイ4号の取材地根室・JAZZサテンドールへ回帰。

谷内田さんご夫妻にお会いしカイを応援して頂きました。

http://www13.plala.or.jp/satindoll/index.html


釧路・JAZZジス・イズへも回帰。

小林さんとしばしモンドリアンの作品の話題に花が咲きました。


http://www.jazz-thisis.com/

皆さんのカイへの応援、本当に有り難く、身にしみます。

台風一過で暴風、しかし目映い光の中で


身も心も清められた2日間の旅でした。

マガンの空

10月10日。新篠津村の夕暮れ近く。

10月10日。新篠津村の夕暮れ近く。


ここ10年くらい、野外活動といえば平地でのジョギング程度になってしまったが、それでも郊外を走ると季節の移ろいがリアルに感じられるものだ。

5月の半ばをすぎるとカッコウの初鳴きが楽しみだし、いま時分、秋が深まりだすとシベリアから渡ってくるマガンの編隊を空にさがす。遠くで犬が鳴き合っているような声が降ってきたら、空を見上げよう。


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